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●ABOUT書評・感想カテゴリー
「これから元気で」のカテゴリ「書評・感想」に投稿されたすべてのエントリのアーカイブのページが、新しい順番に並んでいます。
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2008年05月09日
これぞ民間外交の王道
昨日、池田先生と胡錦涛主席との会見が行われた。
昨日の時点で一般メディアではいろいろ報じられているけど、SPでないと詳細はわかんないので、今日まで待っていた。
表面上はチベットなどの問題に触れてはいないけど、ドクトリン(基本原則)として示されているよね。
まず、胡主席に贈った漢詩にそれが現れている。
國富邦和日日新 (国は富み、邦と和し 日々、新たなり)
家家充裕感恩深 (家々は充裕にして 感恩深し)
主施仁政行王道 (仁政を主施して 王道を行う)
席不暇暖為人民 (席の暖まる暇なきは 人民の為なり)
古来文化漢土求 (古来 文化は漢土に求め)
月氏叡智福共籌 (月氏の叡智に 福を共に籌りたり)
錦繍中華迎舊友 (錦繍なる中華の 旧友を迎えて)
涛聲友好萬代流 (涛声の友好は 万代へ流る)
※聖教新聞より
※※意味などは、【胡錦濤氏訪日】池田氏が贈った漢詩とは… - MSN産経ニュースにも。
形式的に見れば、胡錦涛主席が仁政を施して王道を行っていることを称えているように見える。
しかし、これは、胡主席に対して、そのような中国統治を行って欲しいという期待であり、祈りであると読むべきだろう。
仁政や王道に反する事態が何であるかを考えれば、自ずと何を指しているかは自明だろう。
あと、該当するといえるのは、胡主席が国連で提唱した「調和世界」の理念に言及していることである。
要は、「お前が『調和世界』と自分で言ってるんだから、有言実行しろや」と言ってるようなものである。
だからこそ、胡主席としては、「中国は依然として発展途上国であり、近代化を実現するには、まだまだ長い道のりがある。」と言い訳せざるを得なかったんだろう。
安倍前総理のように、時にはKYと言われようとも、敢えて直球をぶつけることも必要だろう。
しかし、池田先生のやり方は、それとは違う。
あくまでも、相手の内発性を喚起していく。これが、池田先生のやり方だ。
投稿日時: 2008年05月09日 10:43 | パーマリンク
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2008年02月04日
信仰の親子間問題を考える上での良テキスト
まずは、公法総合演習で使っていたテキストである。
市川 正人, 池田 直樹, 曽和 俊文 / 日本評論社(2006/09) Amazonランキング:34765位 Amazonおすすめ度: 
このテキストのP.238にコラム「親の信教の自由と子ども」というコラムがある。
未成年者が自己の宗教を理由に一定の行動をとり、また、一定の行為を拒否する場合、同じ宗教の信者である親の影響を受けているのが普通である。
(中略)
しかし、親が自分たちの子どもに対して宗教教育を施し、自分たちと同じ宗教の信者となるようにし、その宗教の教義に基づく行動をとるように導くことは、親の信教の自由の行使ではあるが、全て認められるであろうか。例えば、親が、義務教育年齢の子どもを学校へ通わせることを拒否し、自分たちの創った「学校」で宗教教育をすることはどうであろうか。
(中略)
もっと厳しいのは輸血拒否の問題である。
(中略)
しかし、未成年者がその宗教を理由に輸血を拒否する場合には、その未成年者は十分な判断能力がなく親に「洗脳」されているだけかもしれない。もちろん親は輸血を用いた主筒には同意しない。未成年者が意識不明の場合も同様である。しかし、親には、十分な判断能力を有さない自分たちの子どもを殉教者に仕立てる自由まで認められるのであろうか。
(太字はにっし~)
最後の一文は、反語ともとれるね。「認められない」あるいは「認められるべきでない」という。
しかし、現実にはそれすら認められていたから、このような表現になっているんだろう。
今後は、児童の権利に関する条約が法源としてあるから、輸血に関する事例では認められない方向に進むかもしれない。
次は、児童の権利に関する条約が日本で発効する前に起きた事件に関するテキストである。
大泉 実成 / 現代書館(1988/11) Amazonランキング:403915位 Amazonおすすめ度:   信仰と生命。この重たいテーマに20代(当時)の若者が体当たりで挑んだ傑作ルポ  誰もが立ち位置を問われる問題  考えさせられる内容
このテキストの冒頭には、1985年6月7日の朝日新聞朝刊に掲載された記事「両親が輸血を拒否 事故の学童死ぬ 出血多量「生かして」の声よそに」がある。
六日午後、川崎市で自転車の小学生がダンプカーと接触、両足骨折などで約五時間後に死んだ。高津署の調べだと、両親がキリスト教に属する一宗派の熱心な信者だったため、救急病院の医師に「決意書」を出して輸血を拒否。小学生は苦しい息の下で「生きたい」と訴えたが、出血多量で死んだことがわかった。
(中略)
両親の連名で病院に提出した決意書は「今回、私たちの息子がたとえ、死に到ることがあっても輸血なしで万全の治療をしてくださるよう切にお願いします。輸血を受けることは、聖書にのっとって受けることはできません」という内容で六日の日付入り。
(中略)
「エホバの証人」は、新教、旧教のどちらにも属さないキリスト教の一宗派で、本部はニューヨーク。
(中略)
信者の子弟が学校での格闘技の授業を拒否し、話題になったこともある。
「エホバの証人」の宣教団体である「ものみの塔聖書冊子教会日本支部」の話 聖書は、「創世記」「レビ記」(以上旧約)、「使徒行伝」(新訳)の中で動物などの血を食べることを禁じている。肉を食べるのはかまわないが、血は「命」を表しており、地面に注いで神に返す、という考え方からだ。輸血も「血を食べる」と同じに解釈している。戒律として課しているのではなく、あくまでも本人の意思を尊重している。今度の場合、世間では理解されないかもしれないが、恐らく父親は、子供を愛し、苦しんだ末に信仰に忠実に従ったのであろう。
医師で作家のなだ・いなだ氏の話。 難しい問題です。でも子供は両親の所有物じゃない。私だったら、両親から訴えられる覚悟で輸血するでしょう。
この事件を受けて、輸血拒否問題への対策が議論された。当然だろう。
昨年には、J-CASTニュース : 親拒否でも15歳未満は輸血 学会が指針素案なんてニュースもあったし。
しかし、日本産科婦人科学会の第6回常務理事会では、こんなやりとりがされている。
岡村理事「このガイドラインは法的な拘束力を持つのか。また、医療側が無輸血治療を行わない場合、転院を勧告するとあるが、かなり重症な疾患の場合は受け入れ先がなく、大学病院から転院できない。ガイドラインを作っても、実際に裁判所等がこれに基づいた判断をしてくれるかが心配である」
早川先生より判例が示され「本人が輸血を拒否した場合、輸血拒否権を認めた最高裁の判例があり、
敗訴する可能性がある。他方、新生児について両親が輸血を拒否した場合は、医療ネグレクトということで児童虐待に準じるものとして仮処分申請し、最も適切な医療処置を選択する能力がある代行者を選任し輸血を認めて手術を受けた事例がある。産婦人科領域で15歳未満が輸血を要する程出血するのは恐らく外傷か機能性出血で出血が止まらないという極めて稀なケースと思うが、普通お産する年齢であれば本人の自己決定権を無視することは難しいのではないかというのが現在の裁判所の判断である」との説明があった。
吉村理事長「そのときには免責証明書を出しておく。死亡したときは異状死の届出をすることになる」
早川先生「必ず異状死として届け出る必要がある」
井上理事「医療全体の自己決定権が何よりも優先するという一貫での法解釈と思うが、将来的にもこの方向性が続くのか。英国では自己決定権よりも最低保障的な医療行為を認めている」
早川先生「自己決定権が全てというのはおかしいのではないかとの考え方は最近彼方此方で出てきている。但し、信仰に係わる問題は一種のタブーとなっており、ディスカッションの外になってしまう」
吉川理事「分娩に関して、輸血拒否者が権利を主張するのであれば、1~2ヶ月前とか事前に申告した場合にのみ対応するが、直前に云われた場合は対応できないことを明記して頂きたい」
早川先生「ご意見を委員会で詰めることとしたい」
(太字はにっし~)
と、かなり心許ない状態といえる。
少なくとも、輸血を強行するには、親からの損害賠償請求を覚悟しておかなければならないということだろう。
輸血拒否の意思表示にもかかわらず強行した場合は、生死に関わらず、自己決定権侵害として、損害賠償責任が認められているし。
児童虐待に準じて、仮処分申請して法定代理人を選任して輸血したという事例もあるようだけど、「説得」の事例にも当てはまるかどうか厳しい。
ちなみに、国会では以下のような議論がされている。
参議院社会労働委員会昭和60年06月18日
○藤井恒男参議院議員(民社党)
それじゃ時間がありませんので、次もう一つお伺いしておきたいんだけど、これも大変ショッキングな出来事が川崎市で起きました。もうマスコミに大きく報道されたところですが、大けがをした学童の輸血を信仰上の理由で両親が拒んで、学童は失血死するということがありました。非常に難しいことでありますが、宗教と医療というはざまで人命が失われる、しかも幼い人命が失われるということで、国民ひとしく重い気持ちになったわけでありますが、このことがある意味で医師に対する、医者の行動ですね、医者の行動というものが、これは宗教上の問題から出たことなんだけど、人命を扱う医者の行動は宗教に揺るがせられないという統一見解というものができないものかどうか。
(中略)
これも外国の例を見ますと、先進国ではほとんどこれはもうクリアしている問題だけど、我が国だけが、どちらかというと宗教上のあつれきが余りない我が国が、こういった現実に宗教の中から幼い命を失うという問題を引き起こすし、また、目の前で臓器移植を待ちつつどうしようもできないという形で人命を失う。大変これは難しい問題であろうと私は思うんだけど、こういった医療行政の基本にかかわるこの種の問題について、厚生省が沈黙しておるという手はない。また、逆の立場になると、今度は医師が萎縮診療という形で、本来やるべき診療行為を萎縮して手を引いてしまう。これも人命にかかわっていくことなんだ。非常にこれは重要な問題なのでひとつ大臣、個人としてで結構だけど、この一連の出来事などに関してどうあなたは思っているのか。
○増岡博之厚生大臣
本来医学の問題は、科学に根拠を持って、それによって得た結論には従うというのが原則だろうと私は思っております。したがって、輸血の問題にしましても脳死の問題にしましても、これは問題は別でありますけれども、その根底にはやはり科学尊重という気持ちがなければならないというふうに考えております。
(中略)
しかし、世の中にはそういう科学的な判定について、この間の輸血の問題のように宗教的な理由から反対をされる方々もおありになるわけでございます。その間の国民的な合意というものを早急に得なければならない、そういう際にやはり科学的な根拠というものを中心にして考えざるを得ないかなという気持ちを現在では強く抱いております。
参議院法務委員会昭和60年06月20日
○橋本敦参議院議員(共産党)
それでは次は、厚生省にもお越しをいただいておりますが、午前中に寺田委員からもお話がありました輸血拒否の問題で子供の命が亡くなったということ、本当にお互いに心を痛めております問題が続くわけですが、この問題について聞きたいと思います。
まず厚生省にお尋ねをいたしますが、この問題で厚生省も慎重に医師の側から事情を聴取されて事実をお聞きになり、一定の御判断を今は得ておられるのではないかと思いますが、この事実についてどういう調査に立っての御見解を今お持ちでしょうか。
○横尾和子厚生省健康政策局医事課長
事件が起こりました翌日に、聖マリアンナ医科大学の救命救急センターの担当医が厚生省の方に来訪されて事情を説明されました。その後、私どもとして特段の調査というようなことはいたしておりません。
そのときに私どもが承知をいたしました内容は、夕景、傷害を受けたお子さんが救命救急センターに運び込まれた、それから亡くなられたのが九時過ぎでございますけれども、その間およそ三十人の救急センターのスタッフがいつでも手術ができるような態勢を整え、一方、御両親に対して輸血をしながら手術に着手することの説得を続けた、しかしながら御両親の方は、ある場合には手術を始めることを了承されるような御様子もうかがわれたけれども、五分待ってくれ、あるいは十分待ってくれというようなことで、それぞれお身内の方、御友人等と御相談をされたようであった、その間、病院の側はこれでいよいよ御承諾がいただけるのではないかというような期待を持って待っていたけれども、結果としては、そのたびごとにやはりしないでほしいという御返事が返ってきた、その間に患者さんの容体が刻々悪くなって、大変残念な結果になったと、こういう内容のことを報告を受けております。
なかなか難しい問題を含んでおりますけれども、私どもは、本件の問題に限れば、このことをもって医師の方の責任を問うというのは適当ではないのではないかという感じを持っております。
○橋本敦議員
わかりました。私もお医者さんが全力を尽くされたことは新聞報道その他によってよく承知ができます。
この問題で、ある意見は、医者の方に医師法違反あるいは業務上過失致死、ひどく言えば不作為による殺人ということが考えられないか、親の方には保護者遺棄致死罪という刑法上の問題が考えられないかという意見もあるのですが、刑事局長、簡単に言って、こういった考え方はいかがなんでしょうか。
○筧榮一法務省刑事局長
御指摘の具体的な問題になりますが、輸血断念に至る経緯など、その間の具体的な事情のいかんによって決せられるべきことであろうかと思います。または医療のあり方の基本にもかかわる問題でございますので、今の事実のみで犯罪の成否ということについては一概には申し上げられないと思います。
あえて一般論として申し上げれば、仮に医師の職業倫理上問題となり得るような行為というものがあったとしましても、それが直ちに犯罪を構成するかということになれば、また別の観点からの検討を要するものであろうというふうに考えております。
○橋本敦議員
私も刑法上あるいは医師法上の法律判断が必要だということで実はお聞きしたのではなかったのでありまして、そういうような問題もあり得るけれども、まさにこれは宗教、信教の自由という、そういう憲法上の大事な問題が一つはある。一つは親とは独立の生命である子供の命、それとそれにかかわる親権のあり方としてどうなのかという非常に大きな問題がある。そういう意味で私は伺ったのであります。
そういう点から言いますと、今度は子供の命と子供の人権という面から見ますと、これはやっぱり人権問題として見た場合にはどういうように考えるのかという問題が一つありますね。そういう意味で局長、お考えはいかがでしょうか。
○野崎幸雄法務省人権擁護局長
子供の治療行為に関しまして、親が自分の宗教的な信念というものを貫いた結果、子供の生きたいという願いを奪う結果になったということでありますれば、これは人権上まことに遺憾なことであるというふうに考えます。
○橋本敦議員
私も信教の自由ということは理解したいと思いますが、やっぱり子供が生きられなかったという点を考えますと、親権というのは本当は子供を保護するべき性質のものですから、親のこういうことで子供が亡くなったということは、やっぱり私は子供の命までも犠牲にしてよいのかということは単純に肯定できないという気持ちで、今の局長と同じような見解を持たざるを得ないのであります。お医者さんが最後の手段として、子供日身に僕は生きたいんだということを両親に言いなさいと、こう言った。大ちゃんは、僕は生きたいんだと親に言った。その大ちゃんの言葉が今も胸に残るような思いがする事件なんですね。
そこで、新聞を読んでいますと、私は気持ちがほっとする一つの記事にぶつかったのですが、アメリカではこれと同じような事件が起こっておる。そのときにお医者さんが裁判所に申し出て、裁判所が一時的な裁判所の命令で一時的に親権を両親から判事に移すという決定をして子供の命を救ったという記事を見たのであります。これは私は本当に救われた思いで読んだ記事でありますが、我が国の家庭裁判所や裁判手続でこういったことが親の親権の問題に関してとれるのだろうかとれないのだろうか。とれないとすればアメリカのこのような制度について裁判所としてはお知りになっている範囲内でどうごらんになっていらっしゃるのだろうか。この点を裁判所にお伺いしたいのであります。
○最高裁判所長官代理者 猪瀬愼一郎最高裁判所事務総局家庭局長
具体的な問題については意見を差し控えさせていただきたいと存じますが、一般論として申し上げますと、親権者が親権を乱用した場合には現行法では家庭裁判所は子の親族または検察官からの請求によりまして親権喪失の宣告をすることができることになっております。これは甲類審判事件として取り扱われます。しかし、この種の事件処理にはある程度日時がかかることから、緊急を要するような場合にはなかなか間に合わないというようなことがございますので、法律はさらに審判前の保全処分の手続を用意しておりまして、親権喪失宣告の申し立てがあった場合に、その申立人からの申し立てによりまして疎明によって一応要件が認められるような場合には親権者の職務の執行を一時停止し、停止の結果親権行使する者がなくなったような場合にはさらに職務代行者を選任する、こういう手続を用意しております。これは緊急の事態に備えての手続でございますから、本案の手続よりはかなり早く処理されておるというような状況でございます。
アメリカの手続あるいは法的な措置につきましては、先ほど委員から御紹介のありましたような親が子の医療措置を拒否したような場合、一定の要件のもとで裁判所が介入しオーダーを出すというようなことがあるやに聞いておりますけれども、この点についての資料の調査収集等は私どもの方で行っておりませんので、その内容について詳しくわかっていないところでございます。
○橋本敦議員
今おっしゃった親権喪失宣告の申し立てが審判は時間がかかるということですから、これは間に合いませんので保全の措置が必要だ。この申し立てはお医者さんでできますか。
○最高裁判所長官代理者 猪瀬愼一郎最高裁判所事務総局家庭局長
審判前の保全処分は本案の手続のいわば付随的な手続でございまして、先ほど申し上げました保全処分の申し立ては本案の親権喪失の宣告の申し立てをした者しかできないわけでございます。本案の申し立ては民法によりますと「子の親族又は検察官」、こうなっておりますが、さらに児童福祉法におきましては児童相談所長もこの請求をなし得る、こういうふうになっております。
○橋本敦議員
そこで、法務大臣お聞きのとおり、おわかりいただいたように、検察官も公益の代表者として親の親権が乱用されるおそれのある場合にはこの申し立てができるということになっているわけですね。果たしてこういう緊急の医療態勢に間に合うかどうかはこれはわかりません。しかし間に合わなければアメリカのような制度の探求をやらなくてはならぬということになるんですが、今の我が国の制度でも検察官が医者からの連絡を受けて、必要とあれば今のような申し立てをするということが可能であれば、ひょっとしたら手続的に可能になるかもしれないということがあるのです。
そこで、私が法務大臣にお願いしたいのは、民事局長や人権擁護局長、あるいは厚生省や裁判所等々も御協議をいただきまして、今後こういう事件が起こった場合に子供の命を救済できるという、そういう道を、これを今お話しがありましたような我が国の家庭裁判所の保全的手続を通じてもやれるのかやれないのか研究をしていただきたい。そして、その研究の結果、アメリカの裁判制度も研究する必要があれば、これもやっていただきたいということで、この大ちゃんという子供の命が失われたことをきっかけにして、将来合理的な子供の命を守る方向をひとつ研究して切り開いていただきたいということをお願いしたいのでありますが、いかがでしょうか。
○嶋崎均法務大臣
この問題につきましては宗教上の信念をある意味で子供に押しつけたというような感じになりまして、それがああいう不幸な結果になったというのは非常に人権保護の観点から見ましても残念なことだというふうに思っておるわけでございます。
それで、今御指摘の点につきましては、これは何か制度的に処理する形なのか、あるいは運用面で何かぐあいのいい方法というものを見つけられるのか、その辺のところはよく検討してみなければいかぬ。特に緊急的な事態であるし、今御説明受けたところから見ますと、ちょっとこのたびのようなケースのときに間に合うかどうかというのは非常に疑問だというふうに思いますので、運用的にそういうような場合にはどう考えていくの
か、またそういう考え方をお医者さんの方でもよく理解をしていただいて、どういう判断ができるのか、そういうところを少し工夫してみたらどうだろうかというふうに思っておる、これは私見でございますが、そういうふうに思っておるわけでございます。いずれにしても、何らかそういうような問題にうまく対処できるような工夫をやってみなければいかぬというふうに思っておる次第でございます。
○橋本敦議員
厚生省の方でも、今ここで議論をしたような方向も含めまして、お医者さんに対する指導も含めて御研究をお願いしたいと思うのですが、いかがでしょうか。
○横尾和子厚生省健康
政策局医事課長 具体的に全国の医療機関に指示をするということにはなじまないとは存じますけれども、この事柄についてどういうような考え方の道筋があるかということを医療関係者が承知しておくことは個々の医療の現場で判断するために大いに役に立つのではないかと思いますので、そういう形で私どもも研究をしたいというふうに思っております。
(太字はにっし~)
その研究の成果というのは、いつになったら現れるのかな?
さて、「説得」の著者は、この両親に接触すべく、「エホバの証人」に入り込む。
そこでいろんな信者の姿が描かれていて、興味深いものがあるが、ここでは割愛する。
筆者は、事件に関与した5人の医師にもインタビューを行っている。
医師たちは、少年の「生きたい」という言葉を否定した。
そして、少年がそのような意思を表明していたのを覚知できれば、それを根拠に輸血を強行するはずだったということである。
したがって、客観的には少年の「生きたい」という意思表示は存在しなかったことになる。
少なくとも、それを望んでいた医師たちが否定している以上、存在しなかったと考えることは経験則に反しない。
新聞報道でされたように、少年の「生きたい」という意思表示は、父親がそう証言したことによる。
でなければ、いくらなんでもそのような報道がされることはないだろう。
筆者は、「生きたい」としている。
しかし、少年はそれなりに信仰に励んでいたようであり、もしかしたら違う意思表示なのかもしれない。
例えば、「(このまま輸血せずに)逝きたい」かもしれないし、「(輸血せずに復活して)生きたい」かもしれない。
何にしても、信仰というのは、教義内容にとっては、生死を左右するものである。
少なくとも、信仰者にとって教義とは、命がけで実践し、命に刻み込むものである。
そのことを、信仰者に相対する者は、ゆめゆめ軽んじるべきではないだろう。
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投稿日時: 2008年02月04日 13:41 | パーマリンク
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2008年02月01日
「民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒」を読んで
試験期間中に読んでいたけど、まだちゃんとしたのを書けていなかったので。
宇留嶋 瑞郎 / ユニコン企画(1998/03) Amazonランキング:323991位 Amazonおすすめ度: 
この本は、既に絶版になっているけど、著者のブログにて、薄井東村山市議から入手できた。
この本が出た頃は、既に政治権力による学会攻撃も一段落していたし、白山さんのデマ事件が確定したりしてたから、こいつらもその内消えるだろうと楽観していた。
だから、出版された当初は、余裕ができたら買おうと思っていたものの、その機会はなかなか来なかった。
そうこうしているうちに、書店では見かけなくなり、どうやら絶版らしいという感じになって、入手を諦めていた。
その間、乙骨が「怪死」を、この本の主人公である草の根一派が「東村山の闇」なんかを出版してたりしたけど、大した影響力もないだろうと、放置していた。
それが、昨年の統一地方選挙の後に、↓なんて騒動が勃発した。
柳原滋雄コラム日記
「ガセネタ屋」の信頼する「東村山市議2人組」が地元でバトル騒動
講談社発行の「週刊現代」がかつて『謝罪広告』の掲載を余儀なくされるきっかけとなった東京・東村山市の“ウソつき市議”ら2人組が、最近、地元の市議会で「騒ぎ」を起こしているようだ。きっかけとなったのは、今年4月に同市議会議員選挙で当選したある男性議員が、元風俗ライターであり、現在も動画でワイセツなアダルト・サイトに登場しているなどとして、市議会議員としてふさわしくないと市長に辞職勧告措置を求めたことに始まる。一方で、市民グループなどには、「(朝木らによる)職業差別を許さない」として男性議員を支援する動きもあり、矢野穂積・朝木直子らと真っ向から対立する形となっている。
これは明らかに草の根一派がおかしいだろうということで、この本を凄く読みたくなった。
この本の帯部では、次のように書かれている。
「繰り上げ当選してもらうために、
辞退することにしました」
前代未聞の議席譲渡劇は
女性当選者の一言で始まった。
この草の根一派の暴挙に対し、市民たちの中から、「草の根グループの議席の私物化を許さない会」が結成された。
この本は、草の根一派と許さない会の攻防を記したものであるともいえる。
時系列にしてみると、
1995年
4/24:朝木直子氏が4位当選
4/26:直子氏当選辞退、千葉県松戸市への転出届
5/1:市民集会、「許さない会」発足決議
5/21:選管委員会、矢野氏の繰り上げ当選を決定
6/3:市民有志が、矢野氏の繰り上げ当選に異議申し立て
6/19:朝木明代市議による万引事件発生
7/7:矢野氏の市議繰り上げ当選に対する審査を市民有志が都選管に申立て
7/12:東村山署、朝木明代市議を窃盗容疑で送検
9/1:朝木明代市議転落死
10/3:市民18名が、都選管が矢野氏の繰上当選に対する異議申し立てを棄却した裁決の取消訴訟を東京高裁へ提起
12/22:朝木市議転落死事件について「事件性なし」との東村山署公式発表
1996年
12/26:東京高裁、原告敗訴の判決
1997年
1/7:最高裁へ上告
4/14:朝木市議転落死事件について「自殺の疑い」との東京地検最終発表
8/25:最高裁、原告勝訴の逆転判決
8/29:市選管「矢野穂積氏の当選無効」を告示
となるのだが、朝木市議による万引事件と転落死事件について、草の根一派が創価学会が関与していると騒ぎ立て、それに一部マスコミが加担し、創価学会叩きを目論む自民党が便乗することで、この本の書名に現れるような事態となった。
草の根一派については、昨年の騒動でその独善性が大いに知られるようになったし、学会に対するデマについては、多くが司法決着している。
しかし、未だに彼らのデマを信じている輩はいるようで、当事者にとっては笑えないような喜劇が展開されていたりもする。
まぁ、自身のメディアリテラシーの低さを嘆くしかないだろうけど。
この本で印象に残ったのは、党派性のもたらす危険と小さくても正義を守ることの困難さである。
元々草の根一派は、公明党との関係が悪くなかった。
むしろ草の根一派が共産党攻撃をしていたので、公明党は一派の暴走を黙認していた。
議会のルールを無視する朝木明代氏に対して懲罰動議が出されたとき、公明党だけが反対に回って成立させなかったこともあるという。
今では考えられないことである。
一派が生きながらえているのには、一派がトリックスターとして振る舞うことで、一派から攻撃を受けている勢力の対立勢力がメリットを得るという関係にあるという面がある。
まさに、党派性の罠といえるだろう。
「敵の敵は味方」なんて単純に考えるのではなく、是々非々で対処していくことが、党派性の罠にはまらない心がけではないだろうか。
一派から公明党にとどまらず、学会まで誹謗中傷などの攻撃に晒されたのは、公明党が小さな悪の芽を摘み損なったことにあるだろう。
だから、僕らは心して政治を監視しなければならないのだろう。
この本の第六章には、「小さな正義」とつけられている。
この章は、当時の学会攻撃に狂奔していた自民党の亀井・白川ラインが、転落死事件の捜査に圧力をかけてきた様子が浮き彫りになっている。
朝木明代が、万引事件を起こして自殺したということになれば、最も困る人物は矢野氏である。
したがって、彼は転落死が他殺でなければならなかった。
だから、「創価学会が怪しい」と言い出した。
当時は、オウム事件に便乗して、新進党のバックにいるとされていた創価学会に対して弾圧を加えようと、自民党が躍起になっていた時期である。
そこで、草の根一派が騒いだことで、反学会勢力は格好の攻撃材料を得ることとなる。
それは、週刊誌の名編集長だった人物をして、「報道が事実と違っているといっても、あの事件は学会がらみだからね。客観的になど取り上げるのは、難しいだろうね」という発言がなされたほどである。
そりゃあ、今でもネットで信じてる輩が絶えないよなって感じである。
転落死事件の捜査には、四月会系議員の圧力がかかるようになった。
特に、捜査の指揮をとっていた副署長に対する圧力が凄まじかったようだ。
しかし、副署長は、自分が政治的圧力に屈しれば、万引事件に遭った被害者が、草の根一派からの嫌がらせを受け続けることになり、何の罪もない市民が、でっち上げの汚名を着せられ、脅され、告訴され、人殺し呼ばわりされることになってしまうと、圧力に耐え続けた。
そして、警視庁上層部は、95年12月22日に公式発表を行うことを決断する。
東村山署が自殺の確証を、比較的早くから固めていたにもかかわらず。
そして、その後検察がこの種の事件では異例の記者会見を開き、警察発表にはなかった「自殺の疑いが強い」と一歩踏み込んだ表現をした。
元々刑事事件性がなかったのであるから、当然といえば当然であるけど。
さらに、これも当然といえば当然だけど、ほとんどのマスコミはこの地検の発表を黙殺する。
きっと、当時学会は、現在のようなマスコミ支配を完成させてなかったからなんだろうね(棒読み)
まぁ、本当に学会がマスコミを支配しているのであれば、今頃草の根一派なんて、お天道様の下を歩けないだろうけど。
それはそれとして。
万引の被害にあった洋品店主は、学会員でないのに学会員であるとか、いわれのない中傷を受けたり、矢野氏と不毛な裁判を余儀なくされている。
転落死事件に政治家が介入してこなければ、転落死は自殺であると決着し、その原因は万引事件を起こしてしまったことで決着していただろう。
被害者が、勇気をもって被害届を出したことで、こんなにも苦しまなければならないというのは、「天道是か非か」と司馬遷ばりに叫びたくなる。
でも、副署長のような公僕の存在を知ると、まんざら捨てたものでもないとも思う。
僕も、法曹を目指す者として、名もなき庶民の小さな正義を守りぬくことのできる力をつけたいものだ。
投稿日時: 2008年02月01日 23:12 | パーマリンク
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2008年01月22日
説得―エホバの証人と輸血拒否事件を読了
まぁ、週末には読み終えていたけど、今日試験があったし。
詳細な感想は、また改めて述べることにして、とりあえずブクログで書いたレビューを。
人間の尊厳>生命の尊厳であることを教えてくれる書。
エホバの証人の教義にはまったく魅力を感じないが、その信仰心にはある種の尊敬の念を抱いた。
彼らを救うには、折伏しかないとも。
投稿日時: 2008年01月22日 23:37 | パーマリンク
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2007年11月17日
久しぶりに買った雑誌「創」12月号
まぁ、毎月「潮」を買っているわけではあるけど。
学会絡みではなくて、“一般的な”という意味で。
「創」は、普段立ち読みして済ませている。
しかし、今月号である12月号は、買ってじっくり読むことにした。
琴線に触れる記事が多かったからだ。
まずは、佐藤優氏の「ナショナリズムという病理 私がJR東労組と創価学会を好く理由」。
氏は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で、次のように紹介されている。
佐藤優 (外交官)
佐藤優(さとう まさる、1960年 - )は日本の外交官・作家。東京都生まれ。埼玉県立浦和高等学校、同志社大学神学部卒業(琉球大学にも合格していたが、当時マルクス主義に傾倒していた佐藤を心配した親族によって、同志社大学に進学させられることとなった) 同大学院神学研究科修了後、1985年にノンキャリアの専門職員として外務省に入省。欧亜局ソビエト連邦課に配属され、ロンドン郊外の英国陸軍語学学校でロシア語を学んだ後、モスクワ国立大学言語学部に留学。1988年から1995年まで在露日本大使館三等書記官。1998年には国際情報局分析第一課主任分析官。「異能の外交官」、「外務省のラスプーチン」などの異名をとる。
2007年現在、起訴休職外務事務官。 護憲派にして、「国体」を重視し皇統の維持を強く訴える尊皇家であり、キリスト教徒でもある。
氏は、JR東労組を巡る問題について、関連情報を集め、分析した結果、当該問題についてJR東労組の戦いを支持することに決めたという。
そのことに対しては、
「あなたは革マル派を支持するのか」という非難や、「革マルのシンパと誤解されるからやめろ」という好意的助言を受けるが、筆者はJR東労組を支持する見解を変更する必要はないと考えている。まず、現在のJR東労組が革マル派だというレッテル貼りには根拠がないと筆者は考える。
と明快だし、そう考える根拠についても縷々述べられている。
そして、そういったレッテル貼りに対しては、
そもそも革マル派というレッテル貼りで批判が終わるというのが、現下論壇とメディアの基礎体力が弱ってしまった証左だ。「革マル派だとしたら、何が悪い」と開き直られたら、どう答えるのだろうか。革マル派の理論家だった故・黒田寛一氏は、日本の左翼思想史について考える場合、無視することのできない重要な思想家で哲学者である。(中略)労働運動のあり方を考えた黒田氏の真摯な思索と対峙して、はじめてまともな批判になるのだ。いかなる思想であれ、レッテル貼りで忌避するというのは、ファシズムへの道を作るものと筆者は考える。
とバッサリ。
これと異なる考え方もあるだろうけど、僕は大いに賛同する。
創価学会に対するレッテル貼りも、これと同じようなものだし。
創価学会の永遠の指導者たる三代会長の思想と真摯な対峙を経た上での批判が、どれだけなされているといえようか。
批判と値しないような誹謗中傷がほとんどであり、的はずれの批判や、事実誤認の批判も少なくない。
上述のようなまともな批判があるというのであれば、是非ともご紹介していただきたいものだ。
氏は、「潮」の本年11月号に、「池田SGI会長の『民間外交』が果たす意義」という一文を寄稿している。
この記事が掲載されたリアクションとして、
これとは全く別の問題で、一部の人々が筆者を激しく非難する。「いつからあんたは池田大作をよいよするようになったのか、幻滅した」、「創価学会の手先に未来はないぞ。それでもクリスチャンか」といった類の批判である。あるいは「創価学会はあなたと利用しようとしているのだから、一回は騙されても、これ以上深入りしない方がいい」という好意的助言もある。
というのがあったそうである。
その「潮」の記事については、
ここで筆者が語ったのは創価学会や池田大作氏に対するリップサービスではない。1991年4月のゴルバチョフ訪日は、日本外務省の失態を池田氏がカバーすることで、ようやく実現したという、筆者が知る真実を明らかにしただけである。あのとき池田氏が大きなリスクを負ったにもかかわらず、それが歴史に正しく刻み込まれていない(要するに外務官僚が真実を隠蔽し、手柄を横取りしている)ことはおかしいというのが筆者の認識だ。
としている。この当時のニュースは僕も覚えている。
ゴルバチョフが、政治家たちとの会見では訪日を明らかにせず、池田先生との会見で訪日を明らかにしたということは、報道されていた。そのことは間違いない。
ただ、それ以上のことまでは、報道されていなかった。
ちなみにこの真実については既に2005年に筆者が産経新聞社から上梓した『国家の自縛』でも言及したことがある。同じ内容でも産経新聞社から出した本ならば非難されず、『潮』に載せるとひなんされるなどというのは実に理不尽だ。
この点は、僕も気を付けなければいけないと思う。
たいていの場合は、問題にならないが、週刊新潮の記事であっても、他のメディアで同じ内容が出ているのであれば、一笑に付せないということだ。もっとも、「他のメディア」というのは、少なくとも、他の週刊誌ではダメだろうけど。少なくとも、いわゆる五大紙クラスの新聞じゃないかな。
また、学会の歴史については、次のように語っている。
それから、戦時中、創価学会の牧口常三郎初代会長が獄中死し、戸田城聖第二代会長も逮捕、投獄されたことは、国家権力の不当な圧力に屈しなかった宗教団体があったという点で、日本宗教史の誇りだというのも筆者の正直な認識だ。筆者はキリスト教徒なので、創価学会に阿る必要はさらさらない。しかし、他の宗教、宗派に対しても公正な目だけは失いたくはないと思う。
この点も、僕は心がけておかなければならないと思う。
別に、他宗の信仰者の優れた業績を称えたとしても、日蓮仏法の優位性が失われるわけではない。
むしろ、十界論の否定につながりかねない行為ではないだろうか。
そういった何らかの評価する際には、公正さというのは大事なんだろう。
それを改めて教えてくれたように思う。
さらに、創価学会が支援する公明党や、学会の政治活動については次のように述べている。
それから、創価学会の影響下にある公明党が与党であるということは、新自由主義政策によって日本が内側から破壊されることを阻止する上で大きな意味をもつと思う。創価学会の教義からして、公平配分に親和的であると考えるからだ。
恐らくJR総連・JR東労組も創価学会も、同列に並べられることを喜ばないと思う。(中略)とにかく筆者はこの二つの組織が好きなのである。なぜなら新自由主義政策によって日本国家が内側から弱ると共に、弱い国家を実態として支える官僚が暴力性を増大し、平気で嘘をつくようになっているときに、新自由主義と官僚が作り出すうずまきに巻き込まれずに、あくまでも自立していこうとする組織がもつ意味は、民主主義を保全していく上でとても重要だと筆者が認識しているからである。
「宗教と民主主義とは相容れない」といった元自民党の幹事長の迷言があるが、民主主義はどういう文化的背景で成熟してきたかを考えた方がいいだろう。
ともあれ、学会に対して、これほど理解し期待が寄せられている事実は重い。
その期待に応えていくのが、池田門下である学会員の使命ではなかろうか。
「創」には、他にも興味深い記事があった。
「奈良少年事件の調書流出で鑑定医逮捕の衝撃」篠田博之
「日本の刑事司法は死刑制度に耐えられるか」安田好弘×鈴木宗男×佐藤優
「大手事務所社長の逮捕の顛末と声優養成システムの問題」添田哲郎
「北九州連続監禁殺人事件高裁判決の画期的中身」甲木京子
「富山冤罪被害者が思いのたけを語った!」浅野健一
「極私的メディア論 亀田騒動と『相転移』」森達也
「タレント文化人 筆刀両断! 橋下徹ら」佐高信
佐高氏については、最近の学会に関するものは、どうもおかしいものがあると思うけれども、この記事については、ほぼ全面的に同意する内容だった。
法曹は、法の正義と人権を擁護するために、時には世論という得体の知れないものと戦わなければならないことがある。
いわば、敢えて空気を読まないことが求められる。
まぁ、学会の折伏大行進も、当時における被折伏者の空気を読んでないってことなんだろうけどw
投稿日時: 2007年11月17日 19:34 | パーマリンク
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2007年11月05日
「池田大作の軌跡 公明党を創立(上)」より
今日、月刊誌「潮」の発売日なので、学○ホ○ルで買ってきた。
タイトルが「公明党を創立」となっているが、今月号ではまだ参院選に打って出る直前で終わっている。
でも、学会が政治に関与する原点が、初代会長の牧口先生の時代にあったことが明かされている。
冒頭は、「大阪事件」の最終陳述の日が描かれている。
五七年の参院補欠選挙に端を発した冤罪事件。検察は池田会長に「禁固十ヶ月」の厳しい求刑を突きつけてきた。
会長は雄弁だった。
「宗教を信ずる者が選挙活動をやるのが、なぜ悪いのか」
傍聴席に小さなざわめき。「しょっぱなから強気や!」
異色の弁論に、新聞各紙の司法記者もペンを走らせる。
(中略)
会長は真っ向から主張した。
「我々の選挙支援は、憲法に保障された国民の権利である」
裁判長の田中勇雄。眉一つ動かさない。閉廷。苦い顔で公判短答の検事が会長に近寄ってきた。はねつけるように言った。
「私は民主主義が続くかぎり、選挙をやる。絶対に勝ってみせる」
池田先生は、政教分離原則を正しく理解している。少なくとも、通説の理解である。
宗教者にも政治活動の権利が憲法上保障されており、政党を結成することも表現の自由として保障されている。
そのことは、このブログでも何度となく述べてきた。
およそ一ヶ月を経た六二年一月二十五日。同法定は、無罪判決を下した。
大阪からの帰途。皆は、勝った、勝ったと無邪気に、はしゃいでいる。会長は釘を刺した。
「戦いは終わったのではない。むしろ、これから始まるのだ」
何ごとか、思索をめぐらせている様子だった。
翌二十六日。東京での本部幹部会。参加者は発表に驚いた。
「公明政治連盟を結成する」
公明党の前身となる政治団体の正式発表である。
無罪判決の翌日。まだ検察による控訴の可能性も色濃く残る時点である。
公明党結成への本格的な一歩は、大阪事件という一大冤罪事件の中から踏み出された。
これ読むまで気がつかなかった。
確かにこの時点では結成の発表であって、結成ではない。
だけど、こういう時系列であったということを知ると、公明党は単なる政党ではなく、まさに権力の魔性との闘争における牙城であることを思い知った。
牧口は孤高の教育者だった。
独創的な教育理論を掲げ、市の視学(教育監督者)や教育界のボスと激しく衝突した。反骨を疎まれ、たびたび左遷、冷遇された。失意に沈む日々も多かった。
(中略)
政治への関心は深い。
為政者が腐っていては、教育改革は夢のまた夢である。学校や校長室に閉じこもらず、進んで政治家、行政家と交流した。
力強い仲間もいる。「黎明会」。吉野作造(政治学者)らが結成した、立憲政治の啓蒙団体である。
新渡戸稲造(農学者)。朝永三十郎(哲学者)。左右田喜一郎(経済学者)。名だたる学識者が名を連ねていた。
一方で、盛んになりつつあった社会主義者の勢力とは一線を画した。
「なるほど社会には欠陥がある。改革は必要だ」
一人の運動家に厳しく直言した。
「だが社会を破壊しただけで、代わりの建設案がなければ、戦国時代の再現にすぎない」
やっぱり、社会に積極的に関わろうとすると、どこかで政治にコミットしなければいけないんだろう。
少なくとも、政治を無視することはできない。
ことさら政治を避けたり遠ざけようというのは、結局理屈倒れになるんだろう。
戸田先生にまつわるエピソードで、ひときわ心に残ったのが次のもの。
しわぶき一つない会場に、戸田会長の御書講義の声が響いた。
一九五二年(昭和二七年)秋。入会間もない成年が、しゃかりきになってペンを走らせていた。
「質問のある人は、いらっしゃい」。言い残して、会長は講義を終えた。
控え室の戸を叩いた。屈託のない笑顔に引き込まれ、思い切って質問した。
「私は怒りっぽくて困っております。どうしたらいいでしょうか」
スッと笑みが消えた。
バーン。両手の拳で机を叩いた。
「怒りっぽいことの何が悪い!」
激怒している。
「世の中には、怒らなきゃならない相手がいる。本当に悪いやつがいる。すべてに優しくしようなんて、根本的に間違っている」
勢いは止まらない。
「男は六十を過ぎると、みな好々爺だ。良いも悪いも引っくるめて、いいよ、いいよとなる。これは男の堕落だ」
戦前の脆弱な政治家たちの姿が念頭にあったか。
「そんな情けない男になるな。年を取っても、悪いものは悪い、良いものは良いと言い切れる、力ある男になれ」
一瞬の間。
「なれるか!」
腹の底から絞り上げた。
「はい!」
笑みが戻った。
「その言葉に間違いがないなら、将来、衆議院議員になれ!俺が応援してやる」
学会が政治進出する三年前である。
悪に怒る政治家たれ!
後に青年は衆議院議員となった。
誰かが気にならないといえば嘘になるw
でも、確かに悪に怒ることは大事だ。
悪への怒りを忘れてしまうと、肝心なときに悪を見過ごすようになってしまう。
権力の魔性の凄まじさを表しているエピソードとしては次のが。
信濃町の学会本部二階。広間に五四人が揃った。文化部員の任命式である(一九五五年二月)。
戸田会長が入場した。厳しい目線で一人一人を見つめていく。
「今日、ここにいるのは、わが愛弟子たちである。しかし、ほとんど全員が退転するだろう」
(中略)
「師子は千尋の谷に子を突き落とし、這い上がらせて訓練をする。ここにいる皆も、千尋の谷に落とさざるを得ないのだ。だが、ほとんどの者が・・・・・・」
しんと静寂が流れた。
「・・・・・・二度と這い上がれないだろう」
一筋の涙が頬を伝っていた。側に控える池田室長は目を閉じている。
「それを思うと、私は余りのつらさに・・・・・・涙がこぼれるのだ」
学会員を政界に送り出すということが、これほど師匠にとってつらいことであるとは・・・
それだけ、権力の魔性というのは、軽く見てはいけないということだろう。
現に、現在の公明党に至るまで、二度と這い上がれない退転者どころか、反逆者まで出ている。
何にしても、学会が政治参加することにとやかくいうのは、如何に現実離れしており、師に背くことであるかということを、改めて学ぶことができた。
今月号とおそらく来月号は、まさに、何故学会が政治に関与するのかという問に答えるものだ。
僕自身が、しっかりと学んでいきたい。
投稿日時: 2007年11月05日 20:16 | パーマリンク
2007年04月15日
「池田大作なき後の創価学会」の感想
この本の存在を知ったのが、執筆者の一人である島田裕巳氏のブログで、発売日数日前のこと。
当日は、書店まで出向くことができず、基本的に別冊宝島自体が、創大の書籍に置かれてないので、amazonで注文したら、昨日ようやく届いた。

池田大作なき後の創価学会―巨大教団が迎える危機の研究
全体的な感想としては、12年前の「となりの創価学会―内側から見た「学会員という幸せ」」よりも、アンチよりになっている。
ただし、後者は宗教法人法の改悪問題のような、四月会を要とする学会包囲網が構築された中、学会の実態と実像をできるだけ客観的に知らしめようという編集意図のもと、かなりの現役学会員や幹部に取材がなされている。
そして、本書のテーマは、書名に見られるように、「池田先生後の創価学会」であり、公明党が与党化したこともあって、学会自体も反体制から体制側へと移行したのではないかと見られている環境下であるから、前提が異なっているということを考慮しなければならないだろう。
この本に関しては、ネタバレに配慮する必要もないであろうから、このまま述べることにする。
まず最初に注目したのが、島田裕巳氏と田原総一朗氏のインタビューである。
冒頭の発言で、島田氏が「創価学会外部で池田大作さんにインタビューした作家、ジャーナリストでは3人しかおらず、そのうちの一人で現存するのが田原さんである(他の二人は、松本清張氏と内藤国夫氏)」という趣旨のことを述べている。
あれ?木村恵子さんが、「人間・池田大作」を制作したのは入らないの?
あの方も、学会員じゃないし入ったとも聞いてない、少なくとも当時は学会員でなかったし。
まぁ、細かいことはおいておこう。島田さんだしね。
あとこのインタビューで気になったのは、
田原:情報化社会がカリスマをなくしたんでしょう。洗いざらい、情報がすべて見えてしまう世の中では、カリスマ性を保つのは難しい。私は『中央公論』のインタビューは、直したりせず、そのまま出してもいいと思ったんです。
ところが創価学会の幹部たちが、絶対に出しちゃいけないという。あんなものを出して池田さんを丸裸にしたら、カリスマ性がなくなってしまうということなんでしょう。案外、本人は平気なんだと思いますよ。実際、外部には伝わらないけれども、学会の大会で行う演説にはそれが出ている。信者はみんな池田さんに酔ってるから、何がどう見えても平気なんでしょうけど
本幹の同放は直しがないにしても編集されてたりする。本質的にはあってもなくても同じものではあるが。
でも、こういうことがなされていると、池田先生の実像を歪めているのは、弟子の一人一人なんだろうね。
罪責の大きいのはいうまでもなく、物理的に池田先生に近い方々だろうけど。
それから、たまにここでも紹介する学会員ジャーナリスト柳原滋雄氏のインタビューも収められた「衝撃の新事実!池田大作なき後の『マスコミ支配』」
まぁ、読売や朝日も聖教や公明新聞の受託印刷やってるから、批判が封じられてるんじゃないのって話。これ自体は、詳細はともかくとして、そんなに目新しい話でもない。
インタビューのところで、
柳原氏自身は創価学会側で、『潮』(学会系月刊誌)に反学会の出版社やジャーナリストを批判する記事を書いている(筆名は中田光彦)。
(中略)
ちなみに原稿料も尋ねてみた。一般に創価学会肝いりの死後尾は、「法外な報酬が支払われる」と信じられているからである。
「四百字詰め原稿用紙一枚あたり約七千円です」
月刊誌として、中の上ぐらいだ。
もしかしたら、氏が学会員であるところから、外部の執筆者に比べて安いという可能性も考えられなくはない。
しかし、法外に高いという訳ではないらしいということが、判ったということが良かった。
次に、学会婦人部を取り上げたルポがあって、筆者は著作を読んでも、講演の様子をおさめた映像を見ても、池田先生のどこが魅力なのかわからないという。
読まない・聞かないという態度よりは、はるかに公正な態度だろう。
筆者は、婦人部員が「競う」ように活動に励む心理や、それを学会がどのように活用しているかに興味を持ち、
それを解き明かすために、脱会者を中心に、少数の現役会員もふくめてインタビューを重ねた。現役会員は取材になかなか応じないという理由もあるが、組織から離れて客観的になった女性たちの言葉によって、わかりえた事実も多くある。
としている。
組織からの離脱者が、本当に客観的かという疑問もあるけど、現役会員が少数にとどまった理由を明示していることで、少なくとも、取材を試みようとしていたことはうかがえる。
敢えて、本当はそんなそぶりも見せず、アリバイ的に書いてるだけという見解に立つ根拠もないだろうし。
驚いたのは、まったく評価する必要がないと思っていた山田直樹氏の記事。
「世界組織『SGI』に忍び寄る影」という中の一節に、
「池田はカネで勲章を買っている」
ネット上には、こんな書き込みがそこら中にある。だが、その事実を証明したものは皆無であり、憶測記事を掲載したメディアは、過去、創価学会から容赦なく告訴されてきた。
カネで勲章や学術称号を買ったとは、一種の暴論だが、少なくとも、池田に対する海外からの“評価”は、日本の創価学会員に“自信”を与えるだろうし、“先生の正しさを証明”する効果にも、計り知れないものがあるはずだ。
この部分の直前には、池田先生の世界貢献の内容が、学術機関や国の機関への援助であり、その見返りだろうとは述べている。
しかし、そのことと、「カネで勲章や学術称号を買う」というのとは、別だという認識を示している。
世界貢献の内容に関しての見解はスルーするとして、少なくとも、この点に関してはまっとうな見識と評価できると思う。
では、各国のSGIは、池田顕彰のための“斡旋機関”なのか。
かつて、スペインSGIの責任者が「(国内の)大学に行って、池田氏に授与する賞を貰ってこい」といった指示を、日本の創価学会本部から受けたことがあると告白したが、こうした話が外部に漏れたのは、この時一回きりである。
筆者の仕事ぶりを考えると、かなり限界の書きぷりやねw
筆者としては、この退転者の告白が本物であって欲しい、という願望が透けて見える。
でも、流石にジャーナリストとしての自負がさせたのか、この“告白”が極めて例外的なもので、事実に反する可能性を示唆しているとも取れる。
これは、受け取り側次第なんだろうけど。
あとは、そんなに興味深い記事もなく、溝口敦氏は相変わらず、根拠となる前提事実がおかしいまま、論を進めてるなということが、確認できるくらいである。
「となりの創価学会」とは、出版意図も前提となる環境も違うということを述べたけど、そういったことを考慮した上でも、やはり本書は、「となりの創価学会」には劣ると思う。
学会を批判するのは、大変結構なことだけど、手あかのついたライターではなく、自分たちで真っ新な状態から、一つ一つ事実を詰めていくようなやり方でやってもらいたいものである。
そのあたりが、ちょっと評価に影響したかなってところ。
投稿日時: 2007年04月15日 11:49 | パーマリンク
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2007年02月09日
成功する人の発想
「都立水商!」が面白かったので、同じ著者のを買って読んでみた。

ドスコイ警備保障
室積 光
バーのマスターにして、役者の静志郎がこのように語っている。
「俺はこの店にいて、いろんな人間を定点観察してるわけだけどな。一つわかったのは、成功する人の発想だな。最初に南の峰親方と豪勇社長がこの店に来てくれた時だけど、豪勇さんが関取になれなかったことを、親方は『運がなかった』と言い、本人は『努力が足りなかった』と言ったんだ。これだよ。横綱に登りつめた親方は、自分は運が良かっただけと言っているわけさ。これは謙虚さなんだよ。成功を自分の力とは言わないわけだから。これが逆だとだめなんだよ。成功した人間が『努力したから』と言い、挫折した人間が『運がなかった』と言ってたらだめなんだよ。人間いい時と悪い時があるよね。いい時は『おかげさまで運良く』と思い、悪い時に『誰のせいでもない自分の努力が足りない』と思う。これが成功する人間の発想だな」
学会員が、「良ければ信心のおかげ、悪ければ自分のせい」というのも、同じような発想だろう。
つまり、成功する発想であり、謙虚なわけである。
だからこそ、人間革命できるとも云える。
関連して、ダンス・スクール&タレント事務所のサイトで掲げてあった、成功する人の条件と失敗する人の条件。
成功する人の条件
積極的になる。
明るい心を持つ。
前向きに考える。
困難を乗り越えるパワーを持つ。
目標を立てて実行する。
異性をひきつける。
仕事に自信を持つ。
学習の効率を高める。
魅力的になる。
恋愛に自信を持つ。
心の安らぎを持つ。
心の安らぎを得る。
心と体の疲れを癒す。
忍耐力を高める。
意欲を持続させる。
記憶力を高める。
学習の習慣をつける。
集中力をつける。
誰とでも話せる。
不安・恐怖を打ち破る。
富を築く。
怠け癖を直す。
自分に自信を持つ。
安らぎのある家に住む。
決断力をつける。
美しいボディラインをつくる。
魅力的な表情をつくる。
仕事仲間と良き関係を保つ。
整理整頓の習慣をつける。
時間管理。
禁煙。
説得力をつける。
営業成績を上げる。
仕事に必要な情報を得る。
正しい意思決定力をつける。
読書の習慣をつける。
多くの人の前で話す自信を持つ。
運動の習慣をつける。
憎しみ・ひがみねがみを消す。
反省の習慣をつける。
日記を書く習慣をつける。
規則正しい生活をする。
語学を上達させる。
数学を学ぶ。
健康への回復を早める。
悩みの解消。
経済的な安定を図る。
素直な心をつくる。
罪の意識から開放する。
ビジュアリゼイションのちからをつける。
包容力をつける。
さわやかな目覚めをする。
基本的に、池田先生の指導通りに学会活動していれば、自ずと上記の条件にいくつも該当するようになる。ならなければ、活動していないものとみなしてしまってもいいくらいである。
失敗する人の条件
遺伝子的欠陥
明確な人生目標がない
向上心がない
教育の不足
自分をコントロールできない
病気
幼少の頃の不幸な環境による影響
一日延ばしの傾向
忍耐力がない
否定的な性格
過剰な性欲または同性愛
ギャンブル好き
優柔不断
恐怖を克服できない
配偶者選びの失敗
過度の用心深さ
協力者選びの失敗
迷信と偏見
職業が向いていない
集中力がない
浪費癖
熱意がない
狭い心
不摂生
協調性がない
努力なしで得た富
嘘をつく習慣
利己主義と虚栄心
当て推量
資金不足
しかし、油断して魔に食い破られてしまうと、活動家であっても失敗する人の条件を抱え込むことになる。
だからこそ、信心の利剣で魔を斬ることが必要になる。
それこそが、信心の戦いである。
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投稿日時: 2007年02月09日 22:42 | パーマリンク
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2006年12月15日
「脳の中の人生」より
民法等の実定法と、法哲学等の基礎法とを協働させるという趣旨の授業が必修で有る。
そこでは、人間の尊厳とか生命倫理とか、かなり小難しい類の文献を読まされる。
その中の一つに、興味深い本が紹介され、買って読んでみた。

脳の中の人生
茂木 健一郎
この本は、雑誌に連載されたものを集めた新書なので、非常に読みやすい。
その中でいくつか気に入ってるのが、第四章“「世界の中の自分」を楽しんでますか?”の「変人であることの自由」と「『国民総ぎこちなさ』のすすめ」である。
変人であることの自由
日本のバブル経済が華やかなりし頃、「ネアカ」「ネクラ」という性格分類が流行ったことがあった。
(中略)
自分の世界にこだわって妥協しない人間は「ネクラ」で、ダサい。それに対して、周囲に合わせて軽口をたたけるような人間は、「ネアカ」で楽しい。そんな単純な人間像は、バブルの崩壊とともに消え去ったのかと思っていたが、テレビのバラエティ番組を見ている限り、まだまだ根強く残っているようだ。
「周りに合わせる」という同質化圧力は、どの国にもある。特に、思春期を迎えたティーンエージャーにその傾向が強いことは、多くの発達心理学者が指摘している。それにしても、日本の社会における同質化圧力は、あまりにも強すぎるようだ。
(中略)
ネアカであろうがネクラであろうが関係ない。自分の個性を追求する「変人であることの自由」が認められなければ、創造性など発揮しようがないのである。
(中略)
ケンブリッジにはニュートン以来の学問の伝統がある。その伝統は、「奇妙であることの自由」と結びついている。街を歩いていて、「何だか妙な」雰囲気の人がいるなと思ったら、学者だと思って間違いない。ぱりっとしたスーツを着て、さっそうと歩いている人がいたら、それは、たいてい「普通の人」だった。普通の人よりも、ぼろぼろのセーターを着た変人の方が尊敬される。そんな、「奇妙であることの自由」を尊重し、賞賛する雰囲気が、ノーベル賞学者を輩出するケンブリッジの偉大な伝統と結びついていた。
人の目を気にしすぎては、新しいことなどできない。日本でも、そろそろ「変人であることの自由」が流行してもよい頃である。
グローバリズム、中国の台頭。みんないっしょに仲良くなどと、悠長なことを言っている場合ではない。ケンブリッジに変人学者を見に出かけるのも、意識改革の一つの手段ではないか。
日本の同質化圧力が強いというのは、まさにその通りだと思う。
それが負の方向に発揮されているのが、学会に対する誹謗中傷だろう。
また、在日朝鮮・韓国人に対する差別感情も、同質化圧力によるものだろう。
「出る杭は打たれる」なんてのも、同質化圧力の最たるものだろうし。
学会は、「桜梅桃李」に代表されるように、個性が尊重されている。
はっきりいって、変人の集まりである。
もっとも、変人だからといって、必ずしも尊敬されるべき人物であるとは限らないけど(^^;
もう一つの方は、機会が有れば紹介することにする。
投稿日時: 2006年12月15日 22:35 | パーマリンク
2006年11月27日
同じテキストを読んでるけど
一部のアンチや内部アンチの中で、比較的に読まれており好評なのが、「ブッダは歩むブッダは語る―ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う」(友岡 雅弥著)である。
ブッダの言葉や行動を紹介することで、本来の仏教がいかなるものであるかという内容である。
そして、内部アンチにとっては、現在の学会のあり方が仏法に反するという論拠として用いている。
しかし、僕が同書を読む限りにおいては、どう読んでも、ブッダは三代会長であるし、ブッダの教団は創価学会としか思えない。
何故なら、僕は学園関西校で、何度となく、池田先生との接点を持つことができた。
また、現在も創価大学で学んでいるので、入学式や創大祭といったスピーチをノーカットで聴く機会に恵まれている。
また、池田先生との師弟共戦の思い出を有する多くの同志の体験も、その思いを補強している。
僕は、自分が実際に見聞したことを信じているに過ぎない。
例えば、多くの内部アンチがお嫌いな「師弟不二」について同書では、
師と同じ道を
『ゴーパカ・モッガラーナ・スッタ』という経典があります。ブッダが逝去してまもないころの仏弟子たちの消息を伝える貴重なテキストです(『マッジマ・ニカーヤ』、一〇八)
ブッダが亡くなってまもない時のこと、ゴーパカ・モッガラーナというバラモンが、アーナンダに問います。
「アーナンダよ。あなたの師であったゴータマに匹敵する智慧を具足した宗教者は他にいるだろうか」
「バラモンよ。そのような宗教者はいません。未曾有の道を切り開いた偉大な師ですから、いるはずがありません。」
アーナンダは師を尊敬していました。師ほどの偉大な人はいない、それが彼の確信でした。が、彼はこのように続けるのです。
「しかしながら、日々それと同じ道を歩む弟子たちも、師と同じ智慧を具足しているのです」
これが「師弟不二」の在り方です。仏を神のような超越的存在として崇拝するのではなく、自らも仏と同じ道を歩むことを目指す仏教の考え方が如実に表れています。ブッダの死後、直弟子がそれを明確に意識していたことを証拠立てる非常に重要な資料です。しかし、やがて、後世の仏教徒たちは尊敬のあまり、ブッダを「神」のような人間を超えた存在にしてしまったのです。
と述べられている。
僕は、明らかにブッダが牧口先生、戸田先生、池田先生の三代会長で、アーナンダが学会員に相当していると受け取った。
おそらく、著者もそういう趣旨であると思う。
安易に師弟不二を嫌悪する者は、もう一度「人間革命」の第10巻を熟読すべきだろう。
しかし、戦ってない者には、いくら読んだところで、わかるものでもないだろうがw
「一人立つ」ことのできない者には、師弟不二であることはできないし、師弟の道を歩むことはできないからね。
何にしても、友岡さんの本に限らず、聖教新聞や創価新報等々、同じテキストを読んでいても、まったく違う所感なんやね。
まぁ、テキストは受け手が存在して初めて成立するものであるし、受け手が違えば、テキストの価値も当然変わってくるものではあるけど。
組織に対して、悲観的に見ている方は、きっと自分の信心が確立してないんだろう。
師弟不二に徹していれば、上の幹部がどうであろうと、「我こそ創価学会なり!」という師子吼を放てるはず。
師匠に、大聖人にさえ、褒めて頂けるのであれば、それ以外の連中にどう云われようと関係ない。
ただただ、広布のために戦い続けるのみである。
そういう覚悟がないから、我見に囚われて、師匠の真実を見失うことになるんだろう。
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投稿日時: 2006年11月27日 23:31 | パーマリンク
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2006年08月15日
『創価 学会の実力』を読んで
島田裕巳さんの『創価 学会の実力』を読んだ。
前著に『創価学会』と同様の読後感を抱いた。
書店で見かけたので、ある程度読み進めたら買おうと思ったけど、気がついたら読み終わっていた。
客観的に創価学会の『実力』を評価しようという姿勢は、評価できるだろう。
しかし、どうも引用されてるテキストを表面的にしか読んでないような感を受けた。
『牧口常三郎獄中の闘い』が引用されていたけれども、「そんなこと書いてあったか?そんな趣旨であったか?」という箇所があった。
今日は、全部読めてしまったことと、所持金が心許なかったので購入できなかったから、読後感だけにとどめておくことにする。
投稿日時: 2006年08月15日 00:37 | パーマリンク
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